「裁判長、17時以降に近くの学校に行ってみて」と原告の公立小教員。東京高裁は残業代支払いを認めず(ハフポストのリンクにとびます)
投稿者: trialsaitama
弁護士ドットコム『公立小教員の残業代訴訟、控訴棄却 原告の男性 上告方針』に取り上げられました
毎日新聞『公立校教員の残業代訴訟、控訴審も原告の請求認めず』に取り上げられました
#28 私が「給特法廃止=長時間労働の解決」と楽観的になれない理由
今日は、給特法についての私の考えを記したいと思います。
給特法以前の問題がある
今、長時間労働を改善しようとする教員から給特法の廃止(あるいは改正)に向けた動きがあります。民間労働者同様、残業代を出させる法律に適用させることで、それを長時間残業の歯止めにするという考え方だと思います。その方向から本当に残業が抑制されるのであれば、それは素晴らしいことです。
しかし、私にはそう楽観的にはなれないところがあります。給特法廃止反対というわけではありませんが、「給特法廃止=長時間労働の解決」とは思えないのです。
なぜなら、それは給特法以前の問題があると考えているからです。
その問題とは、私の裁判でもみられるように、教委は教員が時間外勤務をしても、「学校長が命じていない」「教員の自主的な活動」と言って、労働そのものの存在を認めないことです。その証拠に本来、現給特法下においても「時間外勤務に対しては調整(勤務時間の割り振り)をしっかり行う」ことが必要にもかかわらず、実態はほとんどのケースにおいて時間外勤務が生じても労働の存在が認められていません。
つまり、給特法が廃止され、残業代を出さなければならない法律が適用になるからといって、労働(残業)の存在が認められるかどうかは、もう一つハードルが存在する可能性があるのです。
ですから、給特法廃止がすぐに長時間労働の解決に結びつくとは限らないというのが今の私の考えです。給特法以前の問題として、まずは教員の時間外勤務が労働として認められるかどうか、これが最大の問題と考えています。
いずれにしても時間外勤務が労働として認められる必要がある
私は、教員の時間外勤務が労働として認められるには、超勤4項目以外の教員の時間外勤務の在り方を明確にしていくこと=労働として認めることが必要と考え、裁判を起こしました。
しかし、残念ながら現状は大変厳しく、高裁の判決において、
超勤4項目に限らず、教員のあらゆる時間外での業務に関し、労基法37条の適用(8時間を超える労働に対する残業代の支給)を除外すると解するのが相当である。
とされ、これまでのところ従来からの包括論的解釈(※1)が支持される結果となっています。
※1 直接的な命令がなければ4項目に限らずその他の業務も時間外に行わせてもOK、それはあくまで教員の自主性によるものという解釈
ですが、給特法をそのまま生かすにせよ、廃止するにせよ、この包括論的解釈をきちんと否定することが必要不可欠と私は考えます。そうしなければ、結局のところ、残業が労働として扱われずに「自主的活動」とされてしまうのは同じだからです。超勤4項目以外の時間外勤務の在り方を明確にし、労働として認めることが何より重要なのは給特法の有無によって変わらない、そう思って裁判に臨んでいます。
この包括論的解釈をきちんと否定したうえで、「超勤4項目以外の仕事を命じられない」ことを使用者側にしっかりと守らせる仕組みづくりが必要なのだと思います。
教員の時間外勤務が労働として認められることが最重要
私が、「給特法廃止=長時間労働の解決」と楽観的になれない理由、ご理解いただけたでしょうか。
私は、「超勤4項目以外の時間外勤務が労働として認められること」、これが最重要ととらえています。
皆さんもこのことについて、一緒に考えていただければ幸いです。
#27 改めて教員の仕事は本当に「自主的」ですか?
いつもご支援ありがとうございます。
昨日、東京高裁より「棄却」の判決が出ました。
※判決文(PDF)については、こちらよりご覧いただけます。
今日は、判決を受けての私の思いを述べます。
テストの丸つけは仕事にあたりませんか?
現場の教員たちは、無賃で超長時間労働をさせられています。
(勤務時間後の)児童生徒が行なったテストの丸つけは、仕事にあたらないのでしょうか。
(勤務時間後の)授業の準備は、どうでしょうか。
(勤務時間後の)欠席児童への連絡は?
(勤務開始前の)朝の登校指導は仕事ではありませんか。
これらは、毎日のように行われている教員の仕事です。埼玉県教委ならびに裁判所は、これらの仕事を労働として認めず、教員が「自主的に」やっていることだとしました。
教員の仕事は本当に「自主的」ですか?
しかし、テストの丸つけ・授業の準備、欠席児童への連絡、朝の登校指導などは、本当に教員が「自主的に」やっていることなのでしょうか。
「自主的」かどうかは、本来、教員本人が決めることではないのでしょうか。
しかし、現場の教員たちは、教委ならびに裁判所から「自主的なこと」だとされ、夜遅くまで働かされているのです。
どう考えてもおかしいと思いませんか。
この仕組みは誰が作ったのか。
長い長い年月の間に、日本社会が作ってしまったのです。
午後7時過ぎ(休憩時間なしで既に労働開始12時間経過)に近くの学校に行って見てください。大勢の教員が職員室や教室で丸付けをしています。授業の準備をしています。欠席児童への電話連絡をしています。
これらは全て無賃です。残業代がつかないから残業に歯止めがききません。
昨日の高裁判決で、勤務時間外の丸つけが、授業準備が、欠席児童への連絡が、労働ではなく。教員の「自主的なこと」だと再度確認されてしまいました。
これらは本当に仕事ではないのでしょうか。
これらの仕事が労働として認められずに、遅くまで働かされることを知ったら、あなたは教員の仕事を選びますか。自分の子どもを教員にしますか。周りの人たちを教員にしますか。
今、教員が足りない問題は、このようなことが大きく関わっています。
あとは最高裁のみ
東京高裁から判決が下りました。結果は棄却です。教員仕事は自主的を求められている、と裁判長は言っていました。地裁判決よりも後退した感じを受けます。
教員の時間外勤務において、自主的かどうかを決めるのは教員自身であり、雇用者が自主的を決めるのがおかしいです。私は最高裁に上告します。— 埼玉教員超勤訴訟・田中まさお (@trialsaitama) August 25, 2022
昨日の判決結果で、あとは最高裁判所の判断に頼るしかなくなりました。
最高裁に向けて、私もひと踏ん張りします。
ですから、みなさんももう一度考えてみてください。
「これからもこのままでいいと思いますか」
みなさんひとりひとりが考えてほしい。私はそう思っています。
最後に、今日まで田中まさおをご支援いただきました方々、本当にありがとうございました。皆様のおかげで今日までやってこれました。励まされてきました。
改めて御礼を申し上げます。ありがとうございます。
いつもご支援いただきありがとうございます
東京高裁 判決文全文
#26 高裁判決後の記者会見
フモフモニュース『「先生にも残業代を払って!」定年間際に裁判を起こした小学校の先生の思いと“何よりも求めるもの”』に取り上げられました
「先生にも残業代を払って!」定年間際に裁判を起こした小学校の先生の思いと“何よりも求めるもの”(フモフモニュースのリンクにとびます)
7/2東京財団政策研究所主催webセミナーに参加のお知らせ
田中まさお氏と語る 何が「教員不足」をもたらしたのか−ブラック学校の未来を考える(参加申込のページにとびます)に参加します。
日時は、2022年7月2日(土)14時から16時です。
宜しくお願いします。
#25 健康被害はなくても「生活時間の侵害」を受けている
東京高裁での第二回控訴審においては、労働法の専門家・毛塚勝利先生に書いていただいた『鑑定意見書』を提出しました。
今回は、『意見書』のなかから特に重要なテーマの一つ、「生活時間の侵害」について書きます。
生活時間の侵害
一審判決では、敗訴の要因の一つに私自身が健康的な被害を受けていないということがありました。
しかし、毛塚先生は私も被害を受けていると書いてくださいました。それが「生活時間の侵害」です。
毛塚先生は次のように書いてくださいました。『意見書』からの抜粋です。
「教員の生活時間を侵食していること自体が、労働時間管理義務を怠り法定労働時間遵守義=生活時間配慮義務を怠っていることによる法益侵害なのであるから、国賠法上の違法性を認めて然るべきなのである」
「原告が被った損害としては、過重負担による肉体的精神負荷の増大にかかる損害のみならず、家庭人や市民として健全な家庭生活や社会生活を送る時間、また、教員として自己研鑽をはかる時間、つまり生活時間が侵害された精神的被害をも考慮することが求められる」
「労基法の法定労働時間の遵守は、健康配慮義務の観点以上に生活時間配慮義務の観点からより厳格に労働時間管理が求められると解しうる。1時間の限度時間超えはそのまま1時間の生活時間の侵食を意味するからである」
「労働法における労働時間規制の意味をもっぱら賃金確保や健康安全の確保の観点からのみ捉えてはならないこと、とりわけ生活時間の確保の観点から捉えることが肝要である」
1時間の残業は1時間の「生活時間の侵食」
毛塚先生の「1時間の残業は、そのまま1時間の生活時間の侵食を意味する」という指摘は大変重要です。
1時間の残業は単なる労働時間の増加なのではなく、1時間の生活時間の減少を意味する…、つまりそれだけ生活が侵害されているということです。
何も健康被害がないからといって許されるものではない、ということです。
振り返れば、私自身、長時間労働が慢性化してから、私は何年もの間、家庭での時間、余暇、趣味、友人関係、読書の時間など(教材研究でさえ)生活時間を奪われてきました。
家庭では家族との過ごす時間がなくなり、友人関係にいたっては消滅してしまった関係もあります。また、病気にはなっていないものの、休日は疲れ切っていて、余暇やレジャーなどは他人事になってしまいました。
私同様に、大勢の教員が健康被害まではいかなくても、「生活時間の侵害」を被ってきたのではないでしょうか。
学校現場が1日8時間の労働時間規制を遵守し「生活時間の確保」がしっかりとなされる職場になるような、その後押しとなる判決が出ることを強く望んでいます。
高裁判決は8月25日です。
なお、『意見書』全文はこちらからお読みいただけますので、ぜひお読みください。