埼玉教員超勤訴訟の田中まさおです。
今、中教審では教員の処遇改善について話し合いが行われています。
そこでは教職調整額の増額が処遇改善の目玉として取り上げられているようですが、田中まさおは問題はそこではないと思うのです。
今日はそのことを綴りたいと思います。
教員の労働問題のミソは残業が「自主的」とされてしまうこと
教員の労働問題のミソは、教員の時間外業務が労働として認められないこと、つまり残業が「自主的」だと扱われてしまうことです。
ここの問題を解決しない限り、いくら教職調整額を増額しようが、長時間労働は解決しません。
何時間働かされても、結局「自主的」の一言で済まされてしまうからです。しかも、増額といっても、調整額2万円程度(で45時間の残業)なのです。2万円で45時間(時給444円)働く人はいません。
この時間外業務の「自主的」な扱いを改めることが、私は教員の長時間労働を解決する唯一無二の道だと思っています。
「自主的」と扱われるのは、極めて不当
これまで教員は「労務管理が難しい」「世の中から求められている」として、時間外業務=「自主的」とされてきました。私が起こした裁判の判決でもそうです。
しかし、「労務管理が難しい」といいますが、給特法の対象外である国立付属校や私立校は労務管理を行っており、また世の中から自主性が期待されているのは教員に限らず公務員全体に当てはまりますが、一般公務員の残業は労働として認められています。
つまり、公立学校教員だけが残業を「自主的」と扱われるのは、極めて不当なのです。
そもそも、文科省・教育委員会・学校長は、教員の意志を確認していません。意志に関係なく「自主的」扱いです。教員本人が「自主的」と思っていなくても、他者が勝手に「自主的」とするのです。こんな理不尽なことがあるでしょうか。
何が労働かを明確に示すべき
今、教員は、仕事の何が「労働」で、何が「自主的」なのか、基準がまったくないなか、すべて「自主的」と扱われ働かされ続けています。
仕事内容で労働か「自主的か」を判断されるのではなく、勤務時間外即ち全て「自主的」となるのです。この状況はどう考えても不合理で、とても持続可能ではありません。もう無理なのです。
ですから、この問題の解決には、何が労働であって、何が自主的か、明確にする必要があります。(あるいは、業務の切り分けが出来ないのであれば、教員の残業を全て労働と認めるべきです。)その判断基準が存在しないまま、長時間労働が解決するわけがありません。
それなのに、中教審の審議会は、そのことには一切触れていません。そのことから逃げているのです。
教職調整額を増額することでお茶を濁し、時間外勤務は「自主的」なものとしたままでは教員の働き方は改善されません。限りのない時間外勤務は永遠に存在し続けます。
教員の時間外業務をきちんと労働と認めるべきなのです。そのために何が労働であるか基準を示すべきです。労働を正当に認めず、「自主的」と放置し続けるのであれば状況は何も改善しません。
また、中教審だけではありません。教員の方にもアクションが必要です。今、校長による(事実上の)時間外勤務の強要に抵抗しているのは一部の教員だけですが、教員全体が団結し、「自主的労働」にしっかりと反対の意志を示すべきです。